ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐野 明弘/石川県 光闡坊
第四回 現代と親鸞―はるかなる時・はてなき世界―音声を聞く

 現代と親鸞というテーマでお話させていただいております。親鸞聖人は時代が下がると、いのち生きるものの寿命が短くなり、身、すなわち生きている世界が小さくなると言われております。それはどういうことでしょう。
 利用という言葉があります。利という漢字はのぎへんにりっとうですが、のぎへんはたわわに実った稲の姿で、りっとうは刃物、つまり実りを収穫して生活の足しにすることだそうです。他のもののもつはたらきを手に入れて、自らの為にしてゆくという発想です。資本主義の発想がまさにそれです。山も川も海も、そして人間も、資源として利用価値を求める在り方です。一方受用という言葉があります。受けるという字と利用の用の字で、仏教の読みくせで(じゅゆう)と読みます。この受の字は両手でものを差し出している姿を表しているそうです。差し出されたものがあってはじめて受けることができます。他力ということがまさに受用という在り方であります。他力とはすがったりして利用するものではなく、どこまでも受け止めてゆくものです。現代のように市場経済一辺倒になる前は、利用と受用とが不可分にありました。例えば、水について言えば、飲み水や田畑、洗濯等に利用しますが、その水は龍がつかさどっていて様々なものに潤いを与え命をはぐくんでおりました。しかし一度龍が暴れ出すと、洪水、暴風雨、津波となってあらゆるものを押し流したりしました。人は水を利用しましたが、それは恵みとして受用されているものでありました。水とともに人は身をもって生きている感覚といのちの厳粛さを感じていたことでしょう。天からの雨、山から川となって海に注ぐ水。利便性の高くなった水道水にそれを感じるのは難しいことです。蛇口から排水溝までしか見えません。身が小さくなったとはこのことで生きている世界が小さくなりました。
 私の住む石川県に、一人の大工さんがおります。彼によると、木材を乾かすのには水につけておくのだそうです。ちょっと驚きますが、木は切っても生きていて、水につけると腐らないように樹脂に溜め込んだ水分を吐き出すのだそうです。そうやって乾かすと、木の樹脂が生きていて、法隆寺のように千年ももつような良い木材になるといいます。しかし現在は薬を使って水分を樹液ごと溶かし出してしまうので、ミイラみたいな感じで、20年程しかもたないと彼は言います。また、木を張り合わせた集合材は、それはとても強いものだけれど、接着剤の寿命がやはり20年程なので、あとはとてももろくなってしまうと言います。木を組むにも、大工さんが作る仕口はしっかり組み合わさり年を経るごとに強くなるそうですが、現代ではあらかじめカットされた製品を使ってボルトで締める工法に変わってきているそうです。これも初めはしっかり締まるけれど、何年も経つとゆるみが出るということです。現代は手軽に安く手に入るものが求められるので、2~30年もてばよいという家がはやるのだそうです。これまで長い間、人間が木と向かい合い共に生きてきた長い歴史は必要なくなり、刹那的で短いスパンで生きることになりました。これは大工さんにとって単に仕事の仕方が変わったというだけのことではありません。木と向かい合い木に尋ねてきた歴史を捨てることは大工であることの根幹にかかわることでしょう。利便性、経済的効果の目、利用感覚で見られる時、人間は受用の世界を失っていきます。そして農家も大工も僧侶も、歴史の刻まれた顔を次第に失って、のっぺらぼうになってきています。これが現代を生きる私たちの顔なのです。こののっぺらぼうにまでなった現代人こそが最も深い苦悩を抱えた姿であります。激しいわけではなく自覚することすら困難なほどにあまりにも深く底のないような苦悩の姿です。この人間を如実に深く見い出し重く受け止めているのが仏法の眼差しであります。そして利用感覚に覆われた現代においてもう一度受用の世界を我々に開かしめんと南無阿弥陀仏となってはるかな時とはてなき世界をもって私たちに呼びかけはたらきかけているのです。

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