ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐野 明弘/石川県 光闡坊
第六回 現代と親鸞―現代の問い―音声を聞く

 現代と親鸞というテーマでお話してまいりました、最終回です。何故人間は現代を問題にするのでしょうか。それは、現代という時代社会において人間が苦しみ悩んでいるからです。現代においてどのような自分を生きたらよいのか、今の自分は本当に自分であり得ているのか。これまで人はその時代その時代に生きてきました。かつて神仏のもとに生きた時代がありました。近代になると神仏に代わって国家が人間の拠り所となり、その国家の一員、国民として生きる時代があり、国家をあげた世界大戦へと突き進んでいきました。そして、現代はその国家を巻き込んで資本主義経済が世界を覆っています。少しでも豊かで便利な生活を求めて自らの人生をよしとしようという方向です。しかし、経済発展が本当に人間の求める道でよいのかが問題となってきたのです。私が中学1年の時、初めて原子力発電所からの電気が大阪万博の会場に届いたとき、日本の多くの国民が未来に希望と夢を持ちました。夢は夢のうちは美しいもので、実際にそれが実現するとそこに様々な問題が露呈してくるものです。原子力だけみても、放射能拡散事故の恐怖、どうにもならぬ汚染処理、行き場のない核廃棄物、これら生命を脅かす問題が見えてきて、原子力を続けていってよいのかと、選択を迫られています。それでも判断の中心はやはり市場経済ということになっています。この市場経済がこれ以上発展していくには、更なる環境破壊と人間どうしの熾烈な競争が必要です。3.11以降つながりとか絆ということが言われるようになりましたが、この市場経済至上主義の中でそれは可能でしょうか。これはある9万人ほどの町の出来事です。20年前には町には昔城下町であった中心街があり、商店が軒を並べていました。その中にあるお店があって、細々でしたが、それなりに暮らしていました。ところが郊外に大型ショッピングセンターが、10年程の間に2つも出来、客足は郊外へと移っていきました。そしてそれまで町の中心であった商店街は次第にシャッターを下ろしていきました。店を営んでいた主人も、売り上げが落ち込んでいき、経営が困難になっていきました。彼は店を大型ショッピングセンターへと移すか悩みましたが、テナント料の支払いが出来そうもなく、断念せざるを得ませんでした。そうしているうちに借金がかさんでいき、ついに、どうにも立ちいかなくなって、店をたたむことになりました。その主人には十代の子供があって、進学させてあげたいと職を探しましたがなかなか見つからず、結局皮肉なことに、大型ショッピングセンターのアルバイトをすることになりました。しかしそれではなかなか暮らしていけません。借金の返済にも困り、次第にお酒の量が増え、昼間から酒のにおいがするようになっていきました。なんとか子どもが進学したころ、ついに生活に耐えきれずお酒で体を壊して亡くなってしまいました。子供は学校を辞めざるを得ませんでした。この町では、その間大型家電センターが3つも進出し、チェーン店のレストランが次々とでき、もとの中心街はほとんどシャッター街と化しました。大型ショッピングセンターに土地を売ったのもその町の人、ショッピングセンターを利用するのもその町の人、そこで働く人も町の人、シャッターを下ろすしかなく死んでゆく人もその町の人です。同じ町でも絆やつながりといったことが成り立ちません。このような中で更に景気をと言わざるを得ない。巨大な経済システムが既に人間のコントロールを超えて、それ自体が活動し、いわば魑魅魍魎化し、自然と人間を飲み込んでいっているようです。人間はつながりを断たれ、環境が破壊されてそこに苦しんでいる。人間の顔を失って苦しんでいる。しかしその苦しみのところこそが、人間が新たに人間を見い出す場所であります。人間の抱える迷いが現代の有り様となって人間自身に突きつけられているのです。もう一度人間が求めているのは何か、どう自分を生きるか、それが問いとなって人間を呼んでいる。帰れと、人間が求める先にあるのが宗教でなく、宗教が人間を問う。それが親鸞聖人の言う、真宗であります。

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