ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐野 明弘/石川県 光闡坊
第五回 現代と親鸞―歴史的存在―音声を聞く

 現代と親鸞というテーマでお話しております。現代という言葉が既に私達が歴史の中に生きていることを示していますが、その歴史の受け止めを2つあげてみたいと思います。一つは、今の自分から見て歴史の出来事を時間軸の上に並べていく知識としての歴史の見方です。この場合には各時代の特徴を比較研究することを通して現代を理解したり、現代社会への自らのかかわり方を考えたりします。これは一般的な歴史の見方と言えます。もう一つは親鸞聖人の歴史の見方でもありますが、歴史を今の自分から見るのではなく、久遠の古、始まりの無いような時から様々な出来事を経めぐってきたいのちの記憶、そこに歴史を見る。この場合は自らが宿している記憶がよみがえってくることで歴史を感覚します。つまり歴史を見い出していくことと自らを見い出すことが一つのことであるような見方です。私たちの存在はそれが形成されてきた歴史をその場としており、それを感覚しているのが意識なのです。この2つ目の歴史の見方はとても分かりにくいものです。罪についても親鸞聖人は生まれるより先からずっと深く重く罪を重ねて今に至っているのが私であると言われます。これは生まれてからの記憶をもって私としている現代人には分かりづらいことです。故アレン・ネルソン氏はアメリカ海兵隊としてベトナム戦争に参戦し女性や子どもを含む多くの人々を殺したことで、心に深い傷を負いました。毎日悪夢にうなされ、戦場が目の前に突然現れるフラッシュバックなどに悩まされ苦しい状況が続きました。家族とも居れず23歳でホームレスでした。そのころ小学校4年生のクラスで戦争体験を話すことになりました。教室に立ったものの、本当のことは何も言えず、一般的な話をして終えました。しかし、質問の時間に、一番前に座っていた女の子が彼に聞きました。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」。彼は何かで殴られたような思いになり、うつむいて目を閉じました。瞼の裏には、初めて殺した人の顔が浮かんできました。心ではうそをついて逃げてしまおうという思いと、本当のことを言わなくては駄目だという思いが交錯していました。どれくらい経ったか、「はい」と答えましたが、目を開けられませんでした。その時、誰かが彼に触れたので目を開けると、質問した少女が彼に抱きついてきたのです。お腹の辺りにあった少女の頭が彼を見上げ、目に涙をいっぱいためて、「かわいそうなネルソンさん」と言って、また抱きしめてくれたのです。彼は頭が真っ白になって息が出来なくなり、やっとのことで震えながら息を吐くと、同時に、とめどもなく涙がこぼれ、顎を伝って落ちたそうです。それまで彼は泣いていませんでした。涙すら戦争で奪われていたのです。彼はこの出来事を通して、後に子どもたちを戦場へ送ってはならないと自らの戦争を語り伝える道を歩み始めることになったのです。罪にうなだれる彼の姿に、どうして少女は涙を流したのでしょう。自らは罪を犯していないだろうと思われる小学校4年生の小さな女の子が、「はい」と言ってうなだれ身動きできなかった彼を見て涙する。この少女は彼の姿を通して罪の悲しみを感じ取ったのでしょう。みずからが犯していなくても罪の悲しみの記憶がどこかにあって、彼の姿にそれが呼び起されてきたのではないでしょうか。また、その出来事を聞いて、胸を打たれる私達も、ずっと繰り返し重ねられてきた罪の悲しみをどこかに抱えているのです。涙とともにそのことを思うのは、厳粛なものに触れた感覚とともに、はるか久遠よりの罪の悲しみの記憶をもって生まれていながら、そのことを忘れていたことに対する愕然とした思いがあるのかもしれません。個々の悲しみの奥に、悲しみの歴史があって、その悲しみは既に個人的なものではないのでしょう。親鸞聖人は大の字をもってすべての悲しみを貫き、それを受け止める歴史の働きを大悲と言われます。久遠という時を開く、それは単に長さということではなく、開かれた歴史の深さを示しているのです。

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