私は石川県にある小松大谷高校の教師です。学校では「宗教」という授業を受け持っています。私の学校ではどの学年にも毎週1時間「宗教」の授業があるのです。
「宗教の授業」と聞くと、「何をするの?」と思われるかもしれません。皆さんは「宗教」という言葉から何を思い浮かべられるでしょうか。神社でお願いごとをすること、お坊さんがお経をよむこと、ひょっとすると、人のいのちを傷つけてしまった宗教団体のことかもしれません。もし、「宗教」がそういうことなら、学校で学ばなくてもよいことです。小松大谷高校の「宗教」の授業は、「生きることを学ぶ」時間です。
生徒は心に届かない授業をするとちゃんと寝てくれます。でも、学ぶ内容に引き付けられ、生徒自身の生きることと結びつくなら、生徒は顔を上げて学びます。そして、若者の豊かな心で応え、生徒の中から芽生えてくるものがあります。
一人の生徒は卒業する時に、宗教の授業について次のような文を記しました。
「この三年間で私はすごく変われたと思っています。宗教の授業の影響が大きいと思うのです。宗教の授業では、毎回、いろんなビデオを見たり、文章を読んだりして、たくさんの感動をもらいました。その感動が心をふるわせ、私の中に隠れていたものを導き出してくれました。そんな宗教のおかげで、私は少し強くなれた気がします。」(小松大谷高校宗教科文集『預流(よる)』第27集 平成22年発行)
生徒は人の生きた姿にふれ、「人はこんなふうに生きれるのか。こう生きるのが本当なんだ」と感動し、生きる希望と勇気が芽生えてきたのです。
また、ある生徒は、「生きるという人生の行動は誰も皆一緒です。だから、他の学校にも宗教という授業が必要だと思います。宗教という授業を学んで、「生きる」という言葉がどれほど重いものかを知りました。」と述べています。生徒は人として生きていることの深さにふれたのです。
私には、「生きることを学ぶ」という言葉が心に深く残ったことがあります。それは、生きるのが辛く、生きることから逃げようとしていた時でした。その時、偶々見かけたキリスト教のお墓に記された「生きることを学び、学ぶために生きなさい」という言葉が目に飛び込んできました。その言葉は私に、「あなたは生きることを楽しいこと、幸せなことと思い込み、辛いことがあるからと、生きることから逃げようとしているのではないか。人生には、苦しいこと、悲しいこと、病いも老いも死もある。そういう人生をどう生きるのか。もう一度学び直しなさい。あなたはそのために生きるのだよ。」、そう呼びかけてきました。私はその言葉に出会い、よろよろと立ち上がることができたのです。
私に「生きることを学ぶ」という歩みが始まったのは、一人の先生との出会いからです。私が高校生の時でした。自分を受け入れることができず、真っ暗な心で生きていた私に、先生は「一緒に学びませんか」と声をかけてくださり、月に一度学びの場所を開いて下いました。先生は出雲路暢良という、当時大学の先生になられたばかりで、親鸞聖人、そして清沢満之先生の教えを学んでおられる方でした。その先生の導きにより、私も親鸞聖人の教えの世界に出会い、初めて生きる勇気と希望が生まれてきました。大学を卒業し、京都の大谷専修学院で学んでいた二十九才の頃、先生は私に「若者と共に生きることを学んでください」と願いをかけて下さり、その言葉に深く頷くものがありました。そして、教師となり生徒と共に学ぶ歩みが始まったのです。先生は亡くなられて二十五年になりますが、その言葉は今も私の中に息づいています。