ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮森 忠利 /石川県 小松大谷高等学校
第六回 教えられ、育てられ―ひとすじの道―音声を聞く

 私は石川県にある小松大谷高校で「宗教」という授業を受け持っています。私が生徒と共に学ぶことを、私に与えられた大切な仕事だと思うようになったのは、多くの出会いをいただいたからです。
 私は29才の時、出雲路暢良(いずもじちょうりょう)先生の「若者と共に生きることを学べ」という言葉に深く頷き、高校の教師となりました。先生自身が親鸞聖人、清沢満之先生の教えを多くの人と共に学ぶことに身を捧げておられました。
 教師として歩み始めた私は、生徒とも心が通わず、重苦しい日々を生きていました。私は人として誠実に生きることを一番大切にしていました。それが真実に生きることだと思っていたからです。しかし、それは間違いをおかした自分を責めることでもありました。人を裏切った自分を許すことができないのです。そこを外れると自分が自分でなくなってしまう、でも窒息してしまいそうなのです。
 そんな時、あるお寺で親鸞聖人の教えを深く学ばれた作家、高史明(こさみょん)先生のお話を聞いておりますと、次のような言葉が聞こえてきたのです。「自分をギリギリ責めるのではない。そこには真実はない。あなたがあなたのままで、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)のままで生きていける一本道がある。念仏の一本道だ」。その声はいのちに染み渡りました。そして、その言葉とともに、信国先生に出会って教わった「どんないのちもそのまま愛し、そのまま生かす」世界を感じとっていました。その言葉はその世界から届けられたのです。自分のいのち、そして、共に生きる人たちのいのちを本当に大切にできる道こそ真実の道だと、かすかにひとすじの道が見えてきたのです。「念仏の一本道を歩め」という言葉に促されての歩みが始まりました。
 親鸞聖人に「よしあしの文字(もんじ)をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪(ぜんまく)の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」(真宗聖典511頁)というご和讃があります。良いことをする者を受け入れ、悪いことをする者を責める人間の誠実さには闇があるのです。
 ある生徒が「大事な存在」という文を記しています。その生徒は中学に入った頃、荒れていて授業中もうるさく、叱る先生さえバカにしていました。中学二年の時、間違ったことをして、母にすごく叱られましたが「死んでしまえばいいのに」と思い、また同じことをしてしまいました。母にばれ、「次はすごく怒られる」と思ったら、母は怒ろうともせず、「私に見られないように泣いて」いました。「すごく辛かったです。母はただ怒っているのではない。自分のために言ってくれていることがたくさんある。母は大事な存在だ」と初めて気付いたというのです。自分と一つになって自分のことを悲しむ母親の姿に、「よしあしの心を超えた」深い愛情を感じ、自分もまた「自分を大事にして歩んでいこうという」という心が芽生えてきたのです。(大谷高校宗教科文集「預流」23集 平成18年発行より)
 最後になりますが、一人の先生から聞いて深く心に残っていることがあります。その方は若い頃、心の病気になり、なんとかその苦しみを消そうということにかかり果てていました。その時、長く教えを聞いてこられた医師に出会いました。その医師は「あなたはいい経験をしておいでますね。」と、思いがけないことを言われたのです。続けて「あなたがあなただと思っている底にもう一つのあなたがいます。そのあなたに語りかけてくるものに耳を傾けていきなさい」と語られ、「目が覚める思いがした。」と言われました。苦しいままに学んでいこうという歩みが始まったのです。私もまた、教えられつつ、生徒と共に歩んでいくことを願っています。その歩みが「念仏の一本道」だと思うのです。

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