ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮森 忠利/石川県 小松大谷高等学校
第四回 教えられ、育てられ―死と向き合う―音声を聞く

 私は石川県にある小松大谷高校で「宗教」という授業を受け持っています。「宗教」の授業は、共に「生きること」を学び、生きることを見つめ直す時間です。
 3年生の最後に、「死と向き合う」というテーマで井村和清(かずきよ)という医師の方が書かれた『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(井村和清著 祥伝社 昭和55年)という本と、その本によるテレビ番組をもとに学びました。
 井村さんは30才の時、右ひざがガンにおかされ、転移を防ぐため、右足を失ってしまわれます。きびしいリハビリをし、6ヶ月後、「決して後ろを振り返るまいと心に決め」医師として復帰されます。しかし、ガンは肺に転移し、「あと半年の命だ」と告げられました。それでも「歩ける限り、自分の足で歩いていこう」と4カ月間仕事を続け、郷里の富山県へ帰りました。その1ヶ月後、31才で亡くなられました。その病床で、二人の娘たちにこれだけは書き遺しておきたいと記され、それが出版されて多くの人たちに読まれるようになったのです。
 井村さんは、二人の子どもたちに、「心の優しい、思いやりのある子に育って欲しい。それが私の祈りだ。」と述べ、「私はいつまでも生きている。おまえたちと一緒に生きている。だから、私に逢いたくなる日がきたら、手を合わせなさい。そして、心で私をみつめてごらん」という言葉を遺しています。
 井村さんに学んで、父親を亡くしたある生徒は、「あまりにも急で、受け容れることができません。でも、とても近くにいる気が」していること、井村さんの文に出会い、「おまえたちと一緒に生きている」という文に「ハッとした」と記しています。彼女は「父という姿や形ではもう会えませんが、心で見つめることできっと繋がることができる」と述べています。(小松大谷高校宗教科文集『預流』第31集 平成26年発行による)父は私を見守っていてくれる人として、一緒に生きているのだと気付いたのです。
 また、ある生徒は、「井村さんと同じ病気になりました。何十年か前なら私はもう死んでいます」と記しました。彼は井村さんの文や生きた姿に頷くことがたくさんありました。
 入院生活を送り、普段は当たり前だと思っていた、「今、生きていられること」そして、「自分を支えてくれる周りの人々」が「本当はかけがえのない大切なもの」であったと気付いたのです。井村さんも「あたりまえ こんなすばらしいことを みんなはなぜよろこばないのでしょう」と、私たちが日頃見失っている「生きていること」、そして「多くの人に支えられていること」の喜びを語っています。彼は井村さんと共にその喜びを感じとったのです。だからこそ、「今を精一杯生きよう」、「周りの人を幸せに」できる人になろうと決意しています。
 また、井村さんが患者の気持ちをよくわかるようになったように、彼もまた、入院して「患者には患者にしか分からない気持ちがあり、理解してもらいたいが、諦めている人が多い」というのです。だからこそ、「そのような人たちを支えたい」。特に「入院した時に心を救われた同じ病気に苦しむ子どもたちの心の支えになり、笑顔を届けたい」、彼はそう願うようになりました。(小松大谷高校宗教科文集『預流』第31集 平成26年発行による)今、彼は医療の仕事に携わることを目指して、大学生として歩み始めています。
 ここには、病いを乗り越えて新しい一歩を歩みだした若者の姿が表されています。私は井村さんから、そして彼から、人としての深い気付きと、人生を本当に生きようとする願いを教えられます。

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