ラジオ放送「東本願寺の時間」

河野 通成/大分県 緑芳寺
第一回 世を捨てないで、世を生き尽くす音声を聞く

 まず身近な出来事からお話ししたいと思います。あるお寺の学習会に参加させていただいた時のことです。仏教についてのお話が終わると座談会です。あるご婦人の方がこんな発言をされました。「私は今地獄にいます」と語り始めたのでみんな驚いてしまいました。次第に話を聞くうちに「身の置き所がない、息がつけない」ということだったのです。あまりにも息子の嫁が立派で、掃除や洗濯、食事まで何でもしてくれるということでした。どこか施設にでも行こうかとまで考えていたということでした。座談会の中では皆さんから、「それは嫁の思いやりであり、やさしさです」という意見がほとんどでしたが、高齢の女性からは「姑さんから自分の行為について何一つ文句を言わせないぞ」と逆に威圧的な態度だという意見もありました。男女や年代によって感じ方はさまざまですが、お聞きしていて三つの課題が明らかになってきました。
 一つは、私たちの善いと思ってした行為、間違いのない確かな行為が、相手を傷つけ、窮屈な思いをさせ、時には精神的に追い込んでいくことにもなるということです。誤解のないように言っておきますが、決して人の優しさや他人を思いやる行為や語りかけを否定しているのではありません。
 二つ目は、どこまでも私が見ている、私がしているという、「私が」ということ、「私の」ということを決して離れることができないといういわゆる「私有化」という問題です。
 三つ目は、私たちはいつでも善い悪いということから離れられず疲れ果てています。人間関係も善し悪しの問題です。私たちは関係に行き詰まっても善い悪いに執着して生きている人間の質は決して変わらないのではないでしょうか。
 ところで、昨年からわたしの父や母は入退院を繰り返すような状態にありました。振り返ってみますと、見舞いや介助を行っている時の私は健康でまだ大丈夫という立場からの態度になっていたのでした。励ましの言葉やこうしたほうがいい、これはしたらいけないという忠告は、父や母にとっては、結局ひたすら自分が病気であることの否定的な一面ばかりに目を向けさせることになり、思い沈むことになってしまったようです。つまり励まし・慰め・同情などは相手のことを思いやることからなされる善意かもしれませんが、その善きことの中に潜んでいる傲慢さを知らされたのでした。病人であることの無価値さ、ダメさばかりに目が向けられていくような意識をどこかで与えてしまっていたということなのです。これこそ「上から目線」です。
 またそれが二つ目の「私有化」という問題にも通じています。「私の」両親や「私の」子どもに対して「私の」思いや「私が」している「私の」行いを離れることができないのです。したがってそれは相手の傷ついている声や悲しんでいる声がかき消されるという問題をいつでも孕んでいるのです。
 お釈迦様は晩年、自らの青年時代のことを回想して述べたことの中に、「三つのおごり」というものがあります。「若さのおごり」「健康のおごり」「いのちのおごり」という三つのおごりたかぶりで人間の本質的なものです。私は若い・元気で健康だ・生きていると誇っているということは、若くて役に立ち、健康で誰の世話にもならない、まわりにも頼りにされていることを善しとし価値がある生き方だと執着しているものは、逆に老いること、病いになること、死ぬことは、価値がないもの、無意味なものだと自分や他者を認識することになります。おごりが自他を苦しめていることに無自覚なのだと教えています。
 ある法話を聞く会に毎回身を運んで来られていた90歳のおばあさんは、耳が全く聞こえないにも関わらず欠かさず一番前に座っておられました。ある時私に「念仏によって居場所をいただいております」と一言おっしゃいました。九十年の身が、善し悪しの意識、人間のものさしを超えて念仏を選び取って生きる姿であり、どこまでもこの世を捨てず、この世を超えて生き尽くされている姿がありました。

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