今日は5回目のお話になります。世間の中に在って、世間を捨てず世間を超えて、そして世間と共に在って、人々と対等に出会っていく道を人間の上に開こうという浄土の願いについて話をさせていただいています。
会社勤務の人が「そんなにかたくなるな」と先輩に言われるという。ものごとの矛盾をはっきり言ったり、仕事の面で妥協できないからでしょう。人に対して毅然とした態度をとるという意味の堅さがあったりします。そこで人間の堅さ、人間の心の堅さということ考えてみたいと思います。
今はほとんど耳にしませんが、あまりにきまじめすぎて融通の利かない人のことを「石部金吉」というと聞いたことがあります。また協調性がなくて、なかなか人と合わせられない、いい加減なことを言えない性格が逆にあの人はと距離を置かれてしまったりします。そして自分こそ正義だと考えて、みんなに押しつけてしまったり、ちょっとした間違いを責めたり、これこそ正しいことだから、人に厳格に守らせようしたりすることも堅さでしょう。柔軟性がないと言われたりもします。これらは良い意味であったり、悪い意味であったり場や人によって使われ方はさまざまです。
さらには、スポーツをしている人や何かに頑張っている方からよく聞く言葉に、動じない心「不動の心」があります。どんなにピンチになっても動揺しない心、不安定にならない心、つまり状況に左右されず一喜一憂しない心のことです。私たちの要求する心も動じない強い心でしょう。いわゆる世間にためになり、社会の役に立つ心と言えます。どんな逆境なときでも、躓いても、苦しいときでも、負けないで前へ進んで行くことのできる心です。だから「日々前進」「克服」「勇往邁進」「果敢に」や「冷静沈着」などの言葉が好まれるわけです。
親鸞聖人は、ダイヤモンドのように堅い心といっています。といっても「誰が何と言っても自分の考えを変えないぞ」「信念を曲げないぞ」という頑固な心ではありません。またものごとに動揺しない心でもなく、無心の境地でもありません。ダイヤモンドのような堅い心は、動揺する心を全く打ち壊してつくる心でもないし、冷たい無感動で無感覚な人間なることではないのです。ダイヤモンドのように堅いとは仏様の心といわれています。とするとどのような困難な現実の中でも、「日々前進」して「果敢に」「克服」して生きていくことのできる信念ではないのです。
たとえば堅い信念と置きかえてみると、よく親が子どもに対して注意する言葉に「迷惑をかけてはいけません」「誰にも頼らず自立しなさい」という。これは社会経験から、人と人とが関係して生活していく上では大事な教えであり、問題を乗り越えて生きていく為の一つの信念でもあります。ある保護者の集まりに寄せていただいた時のことですが、あるお母さんから子どもから言われた言葉の中で忘れられない言葉があるといって話してくれたことがあります。「ぼくは小さな頃から人に迷惑かけてはいけないと言われ続けた。それは正しいけれども、人の目や評価ばかり気にするようになって、人と関われなくなった、遠ざけるようになった」と言ったという。それがたとえ正しい道徳的な教えであっても、すべての人に通じて喜びとなるとは限らないところに共に生きることの難しさがあります。
さまざまな価値観があるけれども、優劣があり、上下があり、勝ち負けがある社会の中で、「迷惑をかけず誰にも頼らず自立しなさい」という価値意識は、ある時には他者とのつながりを良好に保ち、また自分を高めて社会人として立派な人間になっていく評価の基準になります。しかし、見方によっては、本当に苦しいとき、どうにもならないとき、人に助けを求めることは悪だという意識になります。これまで社会や家庭環境によって何の疑いもなく刷り込まれた価値意識が自分を縛るものにもなります。またそうなっていない人に対しては、あの人は甘えている人、一人では何もできない人と見えてしまい、嫌悪感や不快な気持ちになったり、笑ったりします。少しオーバーに聞こえるかもしれませんが、共にといっても自分の思いに叶うかぎりの他者にしかすぎないのでしょう。
以前に相対的な価値といったり、二つに分けていく人間の知恵の暗さといったりしたことの具体的なあり方であり、限界なのです。そういう意味で人間の知識や知恵、価値観さえも絶対的なものではないということを横から見抜いていく真実の智慧に出遇わなくてはならないのです。仏様の教えを聞かなくてはならない理由になります。真宗大谷派の僧侶である曽我量深先生は、「仏法は人間を生産致します。世のため人のためになる人間を生産するのではありません。悲しみを感ずることのできる、傷みを感ずることのできる人間を生産致します」とおっしゃっています。ダイヤモンドのように堅い心とは、「悲しみ傷みを感ずる」心であり、仏さまの心です。