今日で3回目のお話になります。昨日までのお話を言い換えると世間の中に在って、世間を捨てず世間を超えて、しかも世間と共に在って、人々と等しく出会っていこうとする道を私たち人間の上に開こうとする願いが浄土の課題なのではないかということが思われます。
少し前の話ですが、ある駅で知り合いの大学に通う学生たちとちょっと立ち話をしていたら、KYという話になった。KYというのは、周りの空気を読めない人のことだそうです。協調性が大事であって、空気が読めないとまわりと生きていけなくなる、迎合していかざるをえないなどと語ってくれました。またこうも言っていた。空気を読まないことも大事ではないか。まわりの空気に従うことを強要されているようだ。空気を読んでばかりだと自分の意見が言えなくなる。相手に意見を言わせなくさせる暴力的な感じがするなど、学生生活の関係の息苦しさが見えてくるようなちょっとした時間でした。
私たちはいろんな場所で多くの関係を生きているのですが、みんなでその場の空気を読み合ってばかりいて、あたりさわらずで他者に関わって影響を与え合うことも少なく、のっぺらぼうな世界に仕上がってしかも息苦しく、けんかして折り合ってお互い様ですといったこともなく、摩擦を避けて一人が楽という世界に孤立しているのかも知れません。
また、ひとりぼっちでいる時のさみしさよりも、みんなといるときのさみしさとどちらがより孤独感が深いかというと、みんなといると時の方がつらいと言います。
人間は傷つき悩む中で、私にとってあなたの言葉や行いが、「そんなこと言われれば傷つきます」と言うことのできる関係を紡いでいるかというとなかなかそうはなりません。その苦しいとまわりに訴えることで同じような境遇にある人たちと関係の広がりを持っていくこともあります。しかし人からバカにされたり差別されたりしている時、苦しいと叫ぶ自由がない時には、がまんを強いられる相手に従うだけの関係になっています。実はつらいと叫ぶことは、がまんを強いられる場の関係や体制に対する批判にもなります。ここはいやだ、こんな家いやだと叫ぶことは、あなたのつくっている世界は、私にとって生きづらい世界だと問われていることになります。
厳しい社会に出て行かねばならない子どもに対して、ついつい「お父さんお母さんの言うことを聞いていれば間違いない、大丈夫」という立場に立つからよけい子どもの弱点、ミス、悪いところ、できない所をあら探しばかりする目になってしまいます。
ところで10代の学生の集まりに参加したときのことです。私がこの世に誕生するかしないかの選択をすることができるのなら、生まれなかったほうがよかったというのです。よくよく聞いてみると夫婦げんかもあったようだけれども、母親が今でも「子どもがいるからがまんしている」と言っているのだと言います。母親も家庭や仕事のことで苦しみ悩むことが多いのでしょう。子どもは母親の言葉をどのように聞き受け止めたのかというと子どもは素直だから「生まれなかったほうがよかった」と言ったのでした。「大好きなお母さんを苦しめている私はここにいてはいけない」・「お母さんをがまんさせている私は生まれなければよかった」と優しい心いっぱいの言葉だったのです。幼い頃からお母さんのどんな愛情に出会っていたのでしょう。本人が意識しようがしまいが、お母さんの子どもに対する見返りを要求することがない、無条件の心にどこかで触れていたからなのでしょう。けんかをして言い争ったり行き違いがあったりしても、最後の信頼はなかなか失わないのです。なぜなら最後にこう言っています。「都合のいいときだけ親に感謝し、都合の悪ければ親を憎む。すごく自分勝手なのです」と自分の身勝手さに気づき痛む心が、「あたりさわらず」の空気を破って等しく人と出遇っていくことのできる人間の基礎なのではないでしょうか。