ラジオ放送「東本願寺の時間」

河野 通成/大分県 緑芳寺
第四回 世を支える優劣の意識音声を聞く

 今日は4回目のお話になります。世間の中に在って、世間を捨てず世間を超えて、そして世間と共に在って、人々と対等に出会っていく道を人間の上に開こうという浄土の願いについて話をさせていただいています。
 ここ数年映画やドラマやマンガなどに土下座をする場面が多いといいます。現在では土下座は謝罪をするという意味で使われることがほとんどです。土下座があふれている社会について、テレビのコメンテーターであろう複数の人が、不況が長引く中で自己責任や成果主義を求める世の中に息苦しさが広がっているためだといい、また屈服を強要する社会になっている、屈服をさせるのは相手に対する制裁だという。
 この土下座の話から見えてくることは、立場があり権力があり強いものの優越性だけが守られて、弱い立場の人間はますますもって卑屈になって行かざるを得ないような格差や上下が固定化された社会が見えてきます。だから他者を笑いものにするかたちで自分を回復しなくてはならないならば、いつも自分より劣ったものを探さなくては立ち位置がなくなることになります。私たち大人たちの言葉を敏感に反応しているのが子どもたちです。「私よりまだ悪い人がいる」「私よりできない人がいる」という言葉を返すしかないような声かけを私たち親がしているのです。
 大人同士の会話でも、日頃は不満ばかりな日常生活も、どこかで不幸な出来事が起こると「平凡が一番幸せ」といってこれまでの不満を納得させています。
 親鸞聖人の師である法然上人にある人が尋ねました。いくつかまとめてみると、僧侶が称える念仏と世間にある者が称える念仏では、その功徳はどちらが優れているのでしょうか。その問いに対して法然上人は、どちらもその功徳においては等しく相違ないと応えておられます。また心がすむときの念仏と妄念でいっぱいの時の念仏では、その功徳はどちらが優れていますか。一回の念仏と十回称えた念仏では、その功徳どちらが優れていますか。智慧のある者が称える念仏と愚かな者が称える念仏では、その功徳はどちらが優れていますか、と質問をしています。法然上人は、阿弥陀仏の本願は人を選ばない、その功徳に格差はないと言い切っています。
 人間の関心は、優れているか劣っているかという優劣意識を中心にして、僧であるかそうでないか、男か女かなど性別や所属に関すること、心の状態に関すること、数や量に関すること、人間の能力、才能に関して優劣を決定していくというものです。いばったり、蔑んだり、卑下したりしますが、人を尊敬するというよりは、びくびくしながら畏れ敬っているのでしょう。ともすると先祖だって畏れ敬っているのかも知れません。感謝していると言いながら、たたりやわざわいを畏れているということはないでしょうか。
 優劣の意識を中心にして生きるということは、どんな関係を生きることになるかというと、他人がへりくだることによって自分自身を保ってきた人間は、相手がへりくだらなくなったら、そして人間として同じだよという態度で接するならば、自分自身の価値を失うというような関係なのです。~のくせに自分のことを馬鹿にしていると被害者の意識で受け止めてしまうならば、縦の関係が固定化されてしまいます。
 40年くらい前、石油ショックの最中に出版され、アメリカの大学教授の経験もあるドイツ生まれの経済学者シューマッハーという人が『人間復興の経済』(祐学社)という本を書いています。斎藤 志郎さんという方の訳によれば「われわれはいかにして貪欲と妬みの武装解除をすることができるか」と述べています。テレビの番組はグルメ、ファッション、豪邸を取り上げたものが少なくなく、こうなることが幸せだと聞こえてきます。うらやましさと妬みがますます増幅されるのが現代だとも言えます。だから私だけが不幸と自暴自棄なり、どうせ私はという声ばかりが聞こえてきます。
 真宗大谷派の僧侶である安田理深先生は、「自分を信ずるということはやけを起こさぬことである。自力に立って行き詰まればやけになるし、できると思うと夢をみる。やけも夢も共に自分を忘れていることである。自力の必然の運命である」(『願生浄土』安田理深 永田文昌堂)とおっしゃっています。

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