ラジオ放送「東本願寺の時間」

河野 通成/大分県 緑芳寺
第二回 人間の愚かさを見抜く智慧音声を聞く

 前回は世間の価値観を少しも疑うことなく、そして、いつでも自分は正しい、確かで善き者という位置から離れられない私たちを不確かだと見抜いていくようなはたらきを依りどころにして生きるということについてお話ししました。
 さて、古典落語に「あたま山」というお話があります。あらすじはおおよそこうです。
 ある所にけちな男がいて、さくらんぼを食べたけれども、もったいないから種も食べてしまったらお腹の中から桜の木が生えてきたそうです。大きく成長して頭の上で花が咲く頃たくさんの花見の見物人が来て騒ぐので、とうとう木を抜いてしまったのでした。その跡には大きな穴ができ雨が降り水がたまってきました。池ができると魚を釣るために大人や子どもが集まってうるさくてしょうがない。男はとうとうたまりかねて自分の頭に身を投げてしまったというお話です。
 頭とは何でしょうか。考えてみますと現代人は、頭つまり分別する理解する分析するという合理的な理性に自分自身を投げ込んでしまった存在といえるでしょう。
 東本願寺から毎月1回発行されている『同朋新聞』に、かなり前に掲載された作家である高史明先生の文章の中に「人間の近代は無明を理性と呼び、この無明を万能したのであった」と書かれてあったことを思い出します。
 私たちの根本的な迷いのことを「無明」といい、真理に暗い、わかったつもりという迷いという意味ですが、知識がないということではありません。根拠がないにも関わらず意味づけや価値付けをする独断的な迷いともいえるかもしれません。だから善悪・正しい、間違い・上下などの相対的な意識は、二つに分けていく人間の知恵の暗さを持っていますから、私たち人間同士の関係を引き裂いたり、自然と人間を分断したりと、私たちは根本的に孤独と空しさという課題を必然的に抱えています。
 大学生の頃どういう科目の授業だったかは忘れてしまいましたが、体育館で大勢の学生とゲームをした時のことです。先生のドラムのリズムの音に合わせて前をしっかり見て行進します。次に先生が「それぞれ自分の好きな方向へまっすぐリズムに合わせて歩みなさい、人の後ろに付いて行ってはいけません、壁にぶつかったら方向転換しなさい」という条件を指示しました。最初は恥ずかしかった学生たちも次第にリラックスしてなかなか楽しいものでした。
 私たちの人生も同じです。目的を見つけ、誠実に努力してまっすぐ自分の人生を歩んでいこうとします。長期的であれ、短期的であれまた今日一日であれ、目的を持ってその時その時を生きていこうとします。行き詰まれば目的を軌道修正したり、手段を変えたり、心の持ちようを変えてみたりして生きていきます。しかし、歩んでいる私自身に対しては何の疑いもなく正しいという確信をもって生きています。だから生きる意味や意義を見出しているときは自信満々でも、状況が変われば、思い通りにならなければ、どうしてと、もう生きる意味がないと人生に対する価値付けが変わってしまいます。つまり自己中心的に生きていることに無自覚なのです。だから自分は確かで間違いない者というのは思い込みなのです。
先生だけが学生一人一人が体育館の中をぐるぐるとまわっている姿を知っていたのでしょう。
 大分県と福岡県の一部の地域を、真宗大谷派では日豊教区と言います。そこで発行されている機関紙「遇我遇仏」(2007年10号)において、大分県宇佐市佐藤病院元院長の田畑正久先生は、「人間としての成熟、すなわち智慧をいただく歩みではなく、若さを誇る未熟さ、新しい知識をよりどころとし、その知識を増やす生き方を良しとした現代人の理知分別の生き様」とおっしゃっています。
親鸞聖人が「世間にあることはみなかぎりがある」と教えておられる通り、あらゆる生きとし生けるものや物質が有限であるということに止まらず、人間の知識や知恵、価値観は絶対的なものはないと真実の智慧に照らされて初めて明らかになるのです。
 今私たちに人間として求められていることはどれだけ元気か、若さや知性を誇り、自分の正しさを主張する理知分別ではなく、人間の愚かさを根底から批判し尽くす真実の智慧ではないでしょうか。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回