ラジオ放送「東本願寺の時間」

三原 隆応/京都府 京都光華高等学校
第二回 宗教との出会いI音声を聞く

 前回、「仏さまを信じる心は、仏さまからいただいた心」であるだけでなく、「仏さまの教えに会うことが出来る条件も、仏さまから与えていただいた」のではないかと申し上げました。改めて私の人生を振り返ると、その思いを強くします。
 私は昭和三十一年に、福井県の名田庄という小さな村の真宗大谷派の寺院に生まれました。住職の父と母、祖母との四人暮らしでした。中学一年生の、学校生活にも少し慣れた六月、部活を終えて少し暗くなった頃寺に戻ると、玄関に村で唯一人の医師、診療所の先生の自転車がありました。祖母がとんできて「大変や、住職が倒れた。」と言います。慌てて中に入ると奥の部屋に父が横たわり、声を掛けても何の反応もありません。診療所の先生が忙しく治療を続けてくれていました。その姿を見て少し安心しました。私は小さい頃あまり丈夫な子ではなく、度々その先生の治療を受け、程なく元気になっていましたので、「この先生にみてもらえば父も明日にはきっと回復するはずだ。」と思ったからです。ところがしばらくするとその先生が「あかん。わしの手にはおえん。電話を貸してくれ。」と、そしてしばらくすると、「よかった、町の病院の先生が二人、すぐ来てくれるそうだ。これで安心だ。」とおっしゃいました。私の寺から町の病院までは約20㎞、今では車で30分程の距離です。しかし当時は舗装もされていない山道、今と違って殆ど行き交う車のない国道にライトが見える度、「あの車か」と待ち続けました。ご門徒の方が何人か先生の車を寺まで誘導するため、数百m離れた国道まで走って下さいました。一時間程して待ちに待った二人の先生が到着し、「これで父も助かった。」と思ったのもつかの間、短い診察が終わると父の喉は切開され、肺に空気を送るための器具が挿入され、若い先生が父に馬乗りになって胸を押し始めました。当時はそれが何を意味しているのか分かりませんでしたが今思えば心臓マッサージです。すでに父は深刻な状態に陥っていたのですが、最悪の事態は想像すらしていませんでした。梅雨入りした湿度の多い六月、若い先生の顔にはすぐに汗が吹き出し、母が冷たい水で冷やした手拭いでその汗を拭きとり、そして数十分で音をあげた若い先生を押しのけるように、今度は母が父の胸を押し始めました。その気迫に圧倒されて側に居続けることも出来ず、本堂の阿弥陀様に「仏様、どうかお父さんを助けて下さい。」と手を合わせ、心配で父の側に戻る、ただただうろたえるだけの私がいました。そして日付が変わろうとする頃、母が肩を落として父の胸を押すのを止め、父は42歳でお浄土に還られました。
 親鸞聖人のお言葉を今に伝える『歎異抄』の第四章には「聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし・・・今生に、いかにいとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。」「人間の努力で、どれほどかわいそうに思い、何とかしようとしても、思い通りに助けることはほとんど出来ない。力を尽くしても救えないのは知っての通りである」と、人間の、人を助けたいという思いの限界を指摘しておられます。まさにその通りのことが現実となったのでした。
 あの時の母が、若い男性の医師が数十分で音をあげた心臓マッサージを数時間も続けたのは、遠く北海道から嫁いできた母にとってたった一人の頼れる存在である父に、何としても生きていて欲しいという、その一念だったと思います。しかしその切実な願いは叶えられませんでした。そして大黒柱を失った山奥の小さな寺では、先に何の希望も見えない、暗く重い日々が始まりました。
 しかし今思い返せば、それが仏さまから与えられた「仏さまの教えに会う」きっかけでした。父の死がなければ、私は地元の公立高校に通い、教えに会うこともなく自分勝手な生き方を選んでいたでしょう。そして、あり余るほどの、私を支え、生かす世界に背を向け、「何の希望も見えない」と、目と心を閉ざしていたことに気付くのは随分後のことになります。

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