私の高校生時代、当時の大谷高校の校長、廣小路亨先生の講話を聞かせていただく機会が度々ありました。今日はその中の「天人五衰」、「天人の寿命が終わる時に現れる五つの兆候」というお話しを、最初に紹介したいと思います。ただ四十年以上も前にお聞きしたお話しですので、中心になる部分以外の説明は、私なりにアレンジしています。
今から二千五百年前のお釈迦様の時代、インドの方々の生活がとても厳しいものであったことは想像に難くありません。彼らは生まれ変わったら衣食住に困らない、苦しみのない「天」の世界に生きたいと願っていました。ちょうど私たちが便利で快適、おいしいものを食べ、健康で長生き、困ることや不都合なことが少ない状態を求め、それを得るためのお金も欲しい、それらが満たされることが幸せであると思い込んでいるのに似ています。
お釈迦様はそこには本物がないと見抜かれ、「天」の生活は五つのことを失うと教えて下さっています。これが先程の「天人五衰」です。では何を失うというのでしょうか。
まず、最初に失うのは、「生きている実感や手応え」です。暑いのも寒いのもつらいものですが、便利で快適、年中エアコンで一定の温度・湿度に保たれたような生活を続けると、生活に張りがなくなってしまうのです。
次に、それなりに健康で長生きなのに、「健康不安」に陥ります。テレビ・新聞・インターネットには、健康食品やサプリメント、トクホに至るまで、様々なコマーシャルがあふれています。市場規模は数兆円と言われます。日本有数の大企業、トヨタの年間営業利益を超えるようなお金を、「体に良いらしい」ということに使っているのです。
次に、「気力」が衰えてきます。「そんなにしんどい思いをしなくても」と適当なところで簡単に妥協してしまうようになります。
次に失うのが、「生き方への誇り」です。どれだけ苦しい状況に追い詰められても、この一線は譲れないという誇りを持てなくなってしまうのです。
最後に失うのは、「居場所」です。今自分が置かれている状態がどんなに恵まれていても、その居場所を楽しめなくなってしまうというのです。
授業の中で聞いた「天人五衰」は、「天人の頭の花の冠がしおれてくる」など、空想の世界のような描写でしたが、それを、「失う五つのこと」と、具体的に示して下さったのが印象に残っています。そして四十年以上も前に、今の社会の問題、現代の苦悩を言い当てて下さっていたのでした。
天の世界で失う五つ、生きている実感や手応え・健康不安・気力・生き方への誇り・居場所という五つを並べると、平安時代の僧、源信僧都が著した『往生要集』が思い出されます。源信僧都は苦しみの世界、「地獄」という状態を、「我今帰る所なし」・「孤独にして同伴なし」という二つの言葉で定義しています。「我今帰る所なし」というのは、私が私のままで安心していられる場所がないということです。「孤独にして同伴なし」というのは文字通り、孤独でつながりが絶たれ、ともに歩む人がいない状態です。私たちはこうなれば幸せになると様々なものを求め続けてきましたが、それは同時に苦しみを生み出す道に通じているということができます。
お釈迦さまの誕生偈、生まれてすぐ宣言された言葉として、「天上天下唯我独尊」が知られていますが、もう一つ「三界は苦なり、我まさに安んずべし」という言葉が伝えられています。三界とは、「天」や人間、そして地獄というあらゆる存在のあり方を言います。
お釈迦さまは二千五百年前に、すでにあらゆる存在のあり方が「苦」に通じると見抜いておられたのです。
親鸞聖人のお言葉を今に伝える『歎異抄』の「後序」と呼ばれる最後の部分には、「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなし」とあります。「自分の家が火事になっているという一大事にも気付かず、目の前のことに振り回されている人間の行ないのすべては、中身がなく間違いだらけで、本物は何もない」ということでしょう。親鸞聖人もまた、私たち人間のあらゆる計らいが間違いであると見抜いておられたのでした。