前回は「天人五衰」という言葉を手がかりに、私たちが幸せを求めて続けてきた営みが、逆に別の形の苦しみを生み出してきたのではないかとお話ししました。今日はそれをふまえて考えていきたいと思います。
私たちは、便利で快適に過ごせる世の中に暮らしています。かつてご飯はかまどで炊き、お風呂は水を汲むところから始まり、薪で沸かしていました。それが今はスイッチ一つ、条件によってはスマホで自宅から離れた所からの操作も可能になりました。科学技術の発展は私たちの生活に大きな恩恵をもたらし、より便利に、より効率良くと進歩を続けています。その進歩・発展は、無駄を省き、効率の良いもの、役に立つものだけを採用するという評価基準に支えられています。
しかしこの評価基準には、一方で切り捨てられるものを生み出すという副作用があります。無駄なもの、効率の悪いもの、役に立たないものは存在の価値を認められず、排除されてしまいます。そして困ったことに、私たちには、一つのことに当てはまった物差しを、全く違う別のものにも当てはめようとする習性があるのです。
学校に勤務し、中学生や高校生と学校生活を共にしていますと、この年代の子どもたちが関わる事件や問題の報道には関心を持たざるを得ません。今年の二月には川崎市で中学一年の男子生徒が殺害された事件がありました。その少し前には長崎で女子生徒が友達に殺害された事件など、痛ましい事件が後を絶ちません。
「何故こんなことが」と誰もが思い、そして多くの場合、後に何らかの兆候が指摘されて、事件は加害者の個別の事情や、「あの時もう少し踏み込んでいれば救えた命ではなかったか」と、学校や行政の対応などに原因の一端を求め、「事件は特別な条件の中で起こった、自分たちと直接関係のないこと」として片づけてしまっています。
しかし、それは本当に自分たちと直接関係のない、特別な条件の中で起こった事件なのでしょうか。詳しい事件の背景や動機を知らない私が推測だけで申し上げるのは問題があるのは承知していますが、私には、私たちのまわりで何時起こってもおかしくない事件に思えてなりません。
親鸞聖人のお言葉を今に伝える『歎異抄』の第十三章には、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」、「そうなってしまう、そうせざるを得ない様々な条件がそろえば、人間はどんなことでもやってしまう」とおっしゃっています。その「さるべき業縁」に私が、親、あるいは教師として、なってしまう可能性が十分にあると思うのです。
先程の評価基準、物差しの存在を子どもたちは日頃の親や教師の言動から気づいています。そしてその基準に照らして、出来ない、役に立たない、都合が悪い存在と評価されていると感じた子どもたちは(親や教師が本当はどう思っているかは関係なく)、「居場所」を失い、ほんの小さな条件をきっかけに、自分でも説明できないような衝動にかられて、とんでもない行動に走ってしまったのではないかと思うのです。
長崎の事件では、かつての小学校での事件を契機に「いのちを大切にする教育」に取り組んできただけに、関係者の受けた衝撃は大きかったと伝えられていました。関係された先生方が本当に真剣に、必死の思いで取り組まれたのは想像に難くありません。しかし、人間の衝動や感情は、道徳観や倫理観などで理解し、「いのちは大切だ」と分かってコントロールできるものではありません。それが「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」といわれる所以です。
本当の問題の根底には、家庭や学校に彼らや彼女たちの「居場所」があったか、自分がありのままで、安心して身を置くことができる、「受け入れられている」と実感できる場所があったか、ということにあるのではないかと思えてならないのです。