教学研究所
所長
宮下晴輝
Miyashita Seiki
それ行道とは頭然を救うがごとし
本年の一月末に、是旃陀羅問題学習資料編纂委員会によって、「是旃陀羅問題学習テキスト『御同朋を生きる』」を刊行することができた。このテキストのことはすでに報告がなされていると思うので、内容にあまり深入りしないで、少しばかり編纂の経緯を記したい。
これは部落解放同盟広島県連合会による訴えを受けて、それに応じようと作成されたものである。その訴えの要点は、平等の救いを説くはずの仏教経典の一つ『観無量寿経』に、どうして「是旃陀羅」(是れ旃陀羅なり)という差別表現があるのかということであった。しかも、この語が法要で読誦されると、死者をも差別表現をもってむち打つかのように思われ心が痛むとも、その訴えの中で語られた。
「旃陀羅」とは、インド語「チャンダーラ」を音写した漢字表記であり、古代インドより現代にいたるまで、カースト制による社会から賤民視され不浄なものとして排除された身分を表わす言葉である。
仏教は、いかなる人も仏道を歩むことができると説き、いかなる生まれの人をもみな平等に受けいれてきた。出家者による僧伽の規律には、比丘が比丘に向かって「あなたはチャンダーラだ」と言って罵ってはならないとする。それは罵詈語戒といい、それを犯せば波逸提という罪(僧中で懺悔)しなければならない罪)になると規定している。さらには「あなたはクシャトリヤだ」とか「あなたはブラーフマナだ」と言うのも、同じ罵詈語であると規定している。ここには、もはや在俗の生まれの身分を表わす名を用いないで、道を歩むという点でみな平等であることをもとにした新たな人間関係が成り立っていることがうかがえる。そして釈尊は、みな「釈子」(釈迦族の子である釈尊の教えに順うもの)という姓を名告るがいいとも説いている。
それに対して、『観経』序分にある「是旃陀羅」の語は、王舎城の事件を物語るなかで、母后韋提希の殺害を止めようとして、阿闍世王に対し大臣月光が用いた言葉である。だからここは出家者の僧伽内のことではなく、世俗のヴァルナ社会の生活実態が語られているのである。そしてその社会で賤しめられ排除された身分の名をもって、王に向かい「あなたは旃陀羅なり」と言うのである。そしてすぐ後に「ここに住まってはならない」(不宜住此)とあるから、この語は、「王であるあなたを旃陀羅としてここから排除する」という含意をもった、現にある差別を利用した差別表現であるということができる。
仏典とともに「旃陀羅」の語が伝わり、鎌倉時代の中期には、それが日本の被差別民衆に対する差別語として用いられるようになった。やがて、親鸞聖人の教えのもとに門徒になっていた多くの被差別民衆が、室町時代後期には、旃陀羅の名のもとに差別排除されていることも知られている。そして江戸の宗学においては、『観経』序分の「是旃陀羅」の語を解釈するとき、「旃陀羅とは日本の穢多のことなり」などとし、中国における悪逆無道とする旃陀羅の解釈を用いて日本の被差別民衆への差別を一層助長してきた。
日本において旃陀羅差別についてはじめて問題提起をしたのは、水平社創設以来の西光万吉である。ようやく社会意識としての差別が問題にされはじめたのである。そして真宗の布教のなかでの差別発言がしばしば取りあげられることになった。
はじめの訴えがあってから、百年あまりが経った。布教などにおける差別発言に対する宗門の取り組みはなされてきた。では他にどういう問題が残ってきたのか。それは、「是旃陀羅」という差別表現を含む『観経』は差別経典というべきではないか、という問題である。
この「旃陀羅」というインド社会の最も酷い賤称が用いられた差別表現であるということは、確かである。これは差別経典だという問題提起の前で、私は─いや私たちはというべきか─思考停止になってしまった。
実は、その問題提起とともに、『観経』序分の差別内容ともいわれるものが具体的に語られてもいたのである。つまり「是旃陀羅」という語には、「母親殺しは旃陀羅のすることだ」という許しがたい差別性が表現されているのだというのである。
インドから中国に伝わった解釈以来、「旃陀羅」とは屠者であり、ものを殺すものであるとも説明されてきた。死刑執行などを生業とさせられてきたことによる解釈であろう。そして「母親殺し」ということも、この語のもっている差別の劇烈さのなかの一つのように思われていたのである。
私の─いや私たちのというべきか─思考停止が払拭されたのは、『観経』序分に、この「母親殺しは旃陀羅のすることだ」と本当に説かれているのかと、改めて読みなおそうと思いたったときである。いまから思えばあるはずのないことが書かれているのだと思い込んでいた。この思い込みを壊すことができたのは、なんといっても広島県連という「運動体」のおかげである。何度も対論させていただいたなかで、「母親殺しは旃陀羅のすることだ」というのは、その「運動論」からあえて強調して言っているのだとも説明していただいたのだが、同時にその読み方の奇妙さに気づかせていただくことにもなったのである。
そこで、序分の「禁母縁」について、江戸の宗学における読み方を再度調べ返して整理し、明治期になってからの解釈に移ったときに、江戸の宗学にはない新たな読み方が始まっていることに気づいた。それが「母親殺しは旃陀羅のすることである」という読み方であった。あえて言えば、一つの読み方を相対化することができたのである。それは、明治期になって日本が新たに作り出した旃陀羅差別であったということができる。
このように「是旃陀羅」の語を捉えかえすことによって、もう一度「禁母縁」全体を読みなおし、その差別表現が、どういう意味をもって、どのような位置にあるものかを解釈する端緒が開かれたのだと思う。この間の読み方や解釈の変遷については、テキスト『御同朋を生きる』に詳しく記してある。そして、「御同朋・御同行への裏切り」から「御同朋を生きる」という新たな視点のもとに、『観経』そのものを読み返すのは、これからのことである。
とはいうものの、事態が解消したのではない。訴えは続いている。しかしまた、対論の道はいまだ開かれていると思う。問われつづけ、訴えられているというのは、そこに問い訴えるものの顔にいつも向きあっているということである。向きあっている顔の前に、常に引き出されている。これが現実である。
顔に向きあって対論するまでは、「差別」といってもどこにあるのか見えていなかった。顔と向きあってからは、頭然を救(はら)うごとく、他人ごとではなくなったように思う。頭然は、急走急作)であわてふためき払い落とすべきものでもあるだろうが、むしろそれは自分に火がついたこと、まずは自分のことだと気づくことという意味もあるだろう。
だから『大荘厳論』は、「それ行道とは、頭然を救うが如し」と説くとき、「応に勤めて内身を観ずべし、自ら調順すべし」ともいうのであろう。
([教研だより(216)]『真宗』2024年7月号より)
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