
教学研究所
所長
宮下晴輝
Miyashita Seiki
阿含経の相応部経典の中に夜叉を主題にした(夜叉相応)一連の短編の経説が集められている。そこに「プナッバス経」がある。以下に後の注釈もあわせて紹介する。
プナッバスの母である夜叉女は、娘を脇にかかえ、息子プナッバスの手をひき、祇多林の給孤独園の後方の柵で囲われたあたりで、糞、尿、唾、洟の悪食をさがしていた。やがて園の門のそばの物置小屋にいたった。
そこで、夜叉女は、風のないときの炎のように、仏陀への尊重ゆえに、手を揺らすなどなく身動き一つしない比丘たちの会衆を見た。そして、
「いまならここに、なにか食べられるものがあるだろうから、バター、油、蜜、砂糖などの中で、器か手からこぼれた何かが、あるいは地面におちているのを手に入れられるかも知れない。」
と思って、園内に入っていった。
その時、世尊の甘い声が聞こえてきた。その声は、膚を切り裂き、骨の髄を打ち、胸奥にいたるほどにとどまった。夜叉女は、教えを聞こうと、身動きせず、立ち止まって、まず子どもたちに言った。
「静かにして、ちっちゃなウッタラーよ。黙って、プナッバス。私は、すぐれた仏陀である師の教えを聞きたいんだ。世尊は、あらゆる束縛からの解放である涅槃をお話しになっている。私にはとてもこの教えが大事なんだ。世間の中で愛しいものはわが子だし、世間の中で愛しいものはわが夫だけど、それよりもこの教えを求めることは私にとってもっと大事なことなんだよ。
というのは、子どもも夫も愛しいけれど、苦しみから解放させてくれはしないからね、正しい教えを聞くことで人が苦しみから解放されるようには。老いと死につながれ、苦しみに圧しつぶされている世間において、老いと死からの解放のためにお覚りになられたこの教えを、私は聞きたいんだ。黙ってておくれ、プナッバス。」
「お母さん、ぼくはおしゃべりしません。このウッタラーも黙っています。教えに耳をかたむけてください。正しい教えを聞くことは幸せです。お母さん、正しい教えを知らなかったので、わたしたちは苦しみを生きてきました。
この方は、迷いの中にある神々や人々に光をもたらす人です。真実を見る眼をおもちの最後身の仏陀が、教えを説いてくださるのです。」
「よく言った。なんと賢いよき子がわが腹に生まれたものか。わが子は、すぐれた仏陀の浄らかな教えを愛しんでいる。プナッバスよ、幸いあれ。いま私は流転から立ち上がった。私もお前も聖なる真実(諦)を見た。ウッタラーも、私に聞くがいい。」 (相応部経典 10・7、プナッバス経)
この経の前にも同趣旨の「ピヤンカラ経」が編纂され伝えられている。仏陀釈尊の教説が、夜叉女であるプナッバスの母の心にも、ピヤンカラの母の心にもとどいたことを物語る経である。註釈者ブッダゴーサはそのことを、仏陀の言葉が二人の夜叉女の骨髄にまで入ったのだという。
愛しいわが子のために食べものを探し求め、愛しい夫とともにあることが、夜叉女の生活である。この愛しさに疑いはない。これが夜叉女にとっての世事の最大関心事である。そんな世事のただなかにあって、夜叉女は雷に打たれたかのように立ち止まった。
仏陀の言葉は何をとどけたのか。いかなる世事も老病死の苦を前にしては無常である。その老病死の苦からの解放が涅槃である。だから涅槃は老病死の苦を超えた不死と言われる。したがって不死とは、老病死の苦によって壊れ失われるものではないこと、この世間における関心事ではありえないこと、すなわち世事ではないことを表わす。だから不死は、超世という意味をもつ。
世間内の衆生である夜叉女が、超世を表わす仏陀の言葉に震撼した。それは、夜叉女の骨髄の深奥に、超世の悲願に共振する心があったといわなければならない。
ところで、この夜叉女たちはその後に出家して仏弟子になったと説かれてはいない。とすればこの後の生活とはどんなものであったのだろうか。すべてを捨てて出家し仏道を成就する生活もありうるし(阿含には夜叉女の出家は説かれていないが)、または愛しい子らや夫とともに生活することもありうる。
法然上人の言葉に「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし」(『和語灯録』『真宗聖教全書』四・一三七頁)とある。夜叉女の生活もまた、仏陀の言葉を憶念してはじまる「現世をすぐべき様」であっただろう。その念仏が超世であるから現世をすぐることができるといわねばならない。だから「ひじりで申されずば、め(妻)をまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし」(同前)とある。まったくの自由、超世の自由である。
その自由なる選びは、清沢満之流にいえば「内心の決定」(『清沢満之全集』第七巻、岩波書店、二〇九頁)による。そしてその内心は、超世の願に応える心であるからこそ、よく決定することができる。かくして、その後プナッバスの母なる夜叉女は、子や夫を健全にますます愛おしみ喜び生活したのでした、と物語ってもいいだろう。
([教研だより(198)]『真宗』2023年1月号より)
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